前の記事で老子のすごいところを書きました。
今回は悪いところです。
2章ほど書きます。
まず3章を。
不尚賢、使民不爭。不貴難得之貨、使民不爲盗。不見可欲、使民心不亂。
是以聖人治、虚其心、實其腹、弱其志、強其骨、常使民無知無欲、使夫知者不敢爲也。爲無爲、則無不治。
という文。(出典Web漢文大系さん)
これは初めて見た時から思ったのですが、
最初の3つの文、これはわかるんです。
実際にそうなりそうなのが見たらわかります。
賢を尊ばなければ、民を争わさせない。(これを現代で言うと受験戦争みたいです。)
得難き貨を 尊ばなければ、民に盗みをさせない。(これは本当ですね)
欲しくなりそうなものを見せなければ、民の心を乱さない。(これも本当ですね)
しかし、そのあとの文章。
其の心を虚しくし、其の腹を満たし、其の志を弱くし、其の骨を強くする。
民を無知無欲にして、頭の良いものに敢えて行動を起こそうとさせなくするのだ。
というような文なんですが、
なんで人間である証の心を虚しくし、生命を犠牲にする食事で腹を満たすことがいいのか。
そして志まで弱くしろと言う。
確かに食べ物は重要です。でもみんなデブになるのがいいわけないですよね。
手相の話ですが、志っていうのは僕は運命線だと思っているので大事なものです。
人間の立派な原動力です。日本人が明治維新ができたのも志があったからですし、現在でも重要な要素だと思われます。
このあとの文の使夫知者不敢爲也という文はまだわかります。
これは悪知恵が働くものに敢えて為させるなという風に捉えることもできて、この場合はいいことを言っていると思います。ただ民に無為無欲にさせるのはあまり正しいとは思えません。動くことが大好きな人もいるくらいなので。
次いきましょう。
14章です。
視之不見、名曰夷。聽之不聞、名曰希。搏之不得、名曰微。此三者不可致詰。故混而爲一。
之を視れども見えず、名づけて夷(い)と曰う。之を聴けども聞こえず、名づけて希(き)と曰う。之を搏(とら)えんとすれども得ず、名づけて微(び)と曰う。此の三者は致(ち)詰(きつ)す可からず。故に混じて一と為る。
其上不皦、其下不昧。繩繩不可名、復歸於無物。是謂無状之状、無物之象。是爲忽恍。迎之不見其首、隨之不見其後。
其の上は皦(あきら)かならず、其の下は昧(くら)からず。縄縄(じょうじょう)として名づく可からず、無(む)物(ぶつ)に復帰す。是を無状の状、無物の象と謂う。是を忽恍(こつこう)と為す。之を迎うれども其の首(こうべ)を見ず、之に随がえども其の後を見ず。
執古之道、以御今之有、以知古始。是謂道紀。
古(いにしえ)の道を執りて、以て今の有を御(ぎょ)し、以て古始を知る。是を道紀と謂う。
(出典Web漢文大系さん)
こちらは精神世界にいってしまったんじゃないかと思われる謎の文章です。
簡単に書くと、
見ても見れないものがある。聞いても聞こえないものがある。捕えようとしても手に入らないものがある。(作者はこの一つ一つに名前を付けています)
これらはつきつめても解明することができない。故にこれらが混ざって一になる。
全文は省きますが、こんな感じで進みます。
ちなみに21章も精神世界です。
中国では老子のあとに老子をもとにした道教というのができるのですが、
これも、仙人になるために不老不死の薬を作ったり、気がどうのこうのという謎の方向へ進むので、
老子のあとの中国の人たちはみんな知能線の長い、精神世界の住人なのでしょう。
ちょっと解説すると、知能線が長くなると月丘に達します。月丘は精神とか想像力を意味するので考えることが精神的なことを考えるようになるようです。