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死に至る病

死に至る病というキュルケゴールの書いた本を買ってだいぶ経った。

怠けて読んでなかったから、まだ全然読み進めてないが、ちょっと気になったので手相と関連付けて思ったことを書く。

まず、運気をよくしたい、というのは人類が成功や金持ちになりたいなどと思うようになってからかと思われるが、この「運がよくなりたい」という気持ちは厄介なもので、人によっては病的なほど思いを抱いていることだろう。それで、この運というのは絶望と深く関わっている。

 

人は運がよくなる時、周りから不幸を、否定をもたらされることがある。

そう何かの本で読んだ。

 

だからキュルケゴールは死に至る病の中で「自己自身になる時の方向は間違ってない。お前の歩むべき道はそこなのだ」と絶望した人に誰かが助言するということを書いているが、これこそ手相の絶望なのである。

 

つまりはこうである。

 

運がよくなりたい。だから強引に線を引く(運命線でも生命線でもいい)。運がよくなりたい一心である。実際に線もできる。

これが手相の絶望。方向は間違えてない。本当に正しい運命線は一つのところからしかでない。だが内容は何もない。だから運がよくなることもない。むしろ運気は下がるだろうと思われる。これこそ絶望的ではないか。

 

 

 

キュルケゴールの言うように真の自己自身であろうとすることが少しでも絶望から抜け出す方法だとすると、その中での自己自身の訴え、自己自身の表現こそが自分の運気を、いやもうそれは運気などではない、自己自身になるということなのだろう。

 

他にも「真理に到達するには否定性を通り抜けなければならない」ともキュルケゴールは言っている。つまり線の流年(線の働く時間の流れのこと)の途中途中でこういう否定性が存在しているということ。それを掻い潜らないといけないよ、とキュルケゴールは言っていると思われる。

 

 

おまけ。

死に至る病の名言。

キュルケゴールの名言はこの本の中だけでもたくさんあると思われるが、面白いのは人が社会で生きていくのを芝居と言ったり、仕事というのは自分の能力を社会の為に売り払っているのだと看破しているところだ。実際これはその通りである。

人中

鼻の下と唇の間にあるくぼみを人中って言うんですけど、これが人間の重要な運命になったんじゃないかと僕は思っている。

口(地丘)から鼻(火星平原)につながる運命線だからです。

人間には何故こんなに複雑な事ができるのかと言うと、昔の人間たちが言葉を沢山使ったからだと思います。たくさん使ったし、言葉の意味も普通の動物、鳥よりも多いですよね。これはきっと運命線が広いからです。

 

昔の人たちは話すのが大好きだったにちがいありません。

 

そして話す前うまくいかないと思っていることでも話すと意外にうまくいくことがありますよね。これもたぶん人中のお陰です。

体の後ろには何かあるのか

前ショッピングしてたら太った男性の後頭部にしわがあったんです。

それに肘に線があった人もいました。

もしかして手相などの反対にも線が刻まれるんじゃないか。

肘にあるということは腕や脚にもあるのかも...

ちなみに僕は膝の周りの一部に線があります。

線は理由なしに刻まれることはないと僕は思うので、いい手相だけど現状を打開できない人はそっちも意識してみるといいですね。

顔にも手相があるよ

前にも書いたかもしれないのですが、顔には手相と同じように相がありそうです。

よくわかるのはおでこのしわですね。

あれはおでこの真ん中にしわがある人は気が狂いそうになっていると思います。三本くらい線があっても一本でもしわが真ん中にあるなら時々気が狂いそうでしょう。

 

一番いいのは手相と同じで丸です。

丸の中心に線があると変だから狂いそうなのだと思います。手相でも土星丘に線があると気が狂いそうになるはずです。

 

ところで、たぶん何ですがおでこには力が入れられますね。道徳的なことを考えながら、力を入れてみたらおでこが発達するかもしれませんね。

サッカーの南野拓実(たぶん)みたいにおでこが出っ張ってる人は土星の力があります。道徳とか発展とかですね。

 

中庸

宇宙はどこまでも大きくて微粒子はどこまでも小さい。

それぞれ役割のようなものがある。例えば宇宙は星が浮かぶ空間を提供しているし、微粒子はあらゆるものを構成する。でもどちらも人間のように「メイン」になれない。

だから人間は元から中庸に近くていつもバランスを取っている。

手相も火星平原の中央に全ての線が集まるというのが僕の自論だが、これはやはり中庸ということだろう。

久々の更新

久しぶりに書きます。

 

地球と電線の話。

 

地球は雲が風に吹かれていろんなところにやってきて雨が降ったり、水が蒸発して循環してます。

 

ところで、この記事を書くきっかけは電線について調べていたからなのですが、そこに電線は社会にとっての血や神経なのだと書かれていました。

それと、偽っていう漢字は人が為すって書くじゃないですか。地球にとって血や神経はすでに存在していて、それが川や風であると思うのです。だから人類がそうやって地球に電線を張っているのは地球にとっては奇妙なことかもしれません。

 

老子も第80章で文明の利器を使わないことを述べています。

まあ僕も電気の恩恵を受けている側なのであまり悪口は言えませんが、自然と調和して生きていければいいですね。以上です。

地球も年を取るのではないか

タイトルどおり、このお題でお話をしようと思います。

 

老子に天地の間はなお「たくやく」(ふいご)のごときか、虚ろにして屈(つ)きず、動きて愈々(いよいよ)出ず。とあるのですが、

 

実際のところ、多産な地球も太陽の寿命が尽きるにつれて生産能力は下がるのではないだろうか。

 

だから、老子の言っていることは当たりではないということになるかもしれない。

 

だから地球の最後の方とかはもう細菌しかいなくなるのかもしれない。

 

 

あと大器晩成とあるが、これも、怪しい。

理由は人間には最盛期があるからです。

確かに実際、晩年になって活躍する人もいる。

だが、ほとんどはただ年を取って、力がなくなっていくばかりではないか。

 

これも地球がいつまでも現役ではないことを表しているような気がする。

 

実際今が地球の最盛期だからこんなに人間が発達したのではないだろうか。